アレクサンドラのスーパーノヴァ

アレクサンドラ・スーパーノヴァによるアレクサンドラ・スーパーノヴァのための吐き出しブログ

涙の数だけ強くなる説の真偽

社会人なら誰もが経験する、理不尽な叱責。

流した悔し涙は果たして、今後の自分の糧となるのか。

「涙の数だけ強くなる」

本日はこの説の真偽について考えたいと思います。

 

わたくしアレクサンドラ・スーパーノヴァは、同世代の中では比較的転職経験が多い方です。

振り返れば、すべてが良い職場とは言い難いものでした。

確かに素晴らしい人間関係を築けた職場もありましたが、中には人間関係に悩み、時には涙を流した夜もありました。

 

私事ではありますが、実は先日転職したばかりなのです。

新しい職場、新しい上司、新しい仕事、全てが初めてで、戸惑いながらも必死でくらいついて行く毎日。

教えられたことをメモするも、職務内容の全貌把握すらままならないままのメモで、果たしてそのメモが正確なものなのかすら怪しいメモ。

常に時間に追われ、時間内に与えられた仕事を終えられず、まったくと言っていいほど成功体験が積めない日々。

今まで経験してきたどの職場よりもキツく感じていました。

 

「なんでも聞いて(^^)」

「何回でも聞いてね(^^)」

何度もそう言っていた指導係。

 

しかし私が質問をして返ってきた言葉はこうでした。

「何日目?」

「メモとってないの?」

 

質問をした日は仕事を初めて2週間目、そしてその質問をしたのは2回目でした。

私は、生まれて初めて、職場での「なんでも聞いて」「何回でも聞いて」は社交辞令であることを学びました。

 

前職は、人間的に尊敬できるボス、そして自分に合った職務内容と、とても恵まれた環境にいました。

それ以前にも転職経験があり、良くない人間関係の職場にもいたわけなのですが、恵まれた環境にいすぎたせいか、私自身の、他人に対する考え方が甘くなっていたようです。

「全ての上司が良い人なわけではない」

という当たり前のことが、頭からすっぽり抜けていました。

 

 恵まれた環境にどっぷりハマった結果、アレクサンドラのメンタルは、やってくるお客さんにすぐお腹をなでさせてあげるトイプードルのように「警戒心?なにそれ?」な状態になってしまっていたのです。

 

そんな心が丸腰の状態で挑んだ新しい職場。

 

二度同じことを質問してはいけない。

慣れない仕事でも、容赦なく「遅い」とため息交じりに言われる。

終業時間になると問答無用で終了させられ、成功体験が全く積めず自信が持てない。

 

 おそらくトイプードルのメンタルはズタズタになったのでしょう。

仕事を始めて2週間たった金曜日、帰宅後3時間涙が止まりませんでした。

 

泣き続けた3時間、いろいろなことを考えました。

 

自分は物覚えが悪い。

仕事の出来ない自分が悪い。

無給でいいから、仕事を終わらせる時間が欲しい。 

 

 泣いても泣いても涙が止まりませんでした。

 

そして、ふと、気づいたのです。

これは洗脳だ、と。

 

いままで、ブラック企業で体やメンタルを壊してしまう人に対して、安易に「逃げればいいのに」と思っていました。

しかし、実際に、軽度ではありますがつらい状況になって初めて、「逃げられない」ということがわかりました。

 

人は追い詰められると、自分を責める以外の選択肢が思いつけなくなるのですね。

自分が変われば、自分がどうにか出来れば、と無理をして環境を変えようとするのです。

 

本来私は、自分を責めるタイプの人間ではありません。

仕事は出来るほうだと思って生きてきました。

そんな私ですら、自分を責めてしまう状況。

もっと気遣いをするタイプの方であれば、もっと自分を責めているでしょう。

今現在もし自分を責めている社会人の方がいらっしゃいましたら、それは洗脳じゃないか?ということを今一度考えていただきたいです。

 

それで、3時間涙を流したあと、どうなったかお話します。

 

実際、メンタルは強くなりました。

 

しかし、それは、スタンスを変えたまでのこと。

「全員信用する」モードから、

「全員敵」モードにメタモルフォーゼしただけです。

 

全員が敵だと思えば、多少嫌味を言われても、心の中で(ほんっと性悪だな)と思えば多少のことであれば受け流すことが出来るようになりました。

 

イライラの感情のまま、そのまま怒られても(「叱る」じゃなくて明らかに「怒る」)、心の中で(器ちっさ)と思えば、真顔で受け止められるようになりました。

 

そのあと、いくら楽しくお話をしても、「ありがとう」と感謝されても、感情を吐き出されぶつけられたことは一生忘れません。

それはそれ、これはこれ、なのです。

 

どんなに仲良くなったように見えても、根底では相手の人間の底を見ているのです。

 

きっと「全員信用する」モードであったときは、感情をぶつけられても(私が悪かったに違いない)と自分を責めていたと思います。

でもそれはまったく無意味なこと。

 

もし、アレクサンドラと同じように、自分を責めてしまっている人がいたら、是非聞いてください。

自分を責めさせる相手はろくなもんじゃないです。

自分の感情を大事にしてください。

 

自分を守れるのは自分だけです。

 

涙の数だけ強くなる説。

これは、涙を流すことによって、自分の中の意識を無理やり変えることで、結果強くなったように思える、という意味なのでしょう。

よって、この説は真実です。

 

 

おわり。

ファン歴の長さでマウントを取る人への悪口

すごいファンとはどういうファンでしょう?

長年応援しているファン?

より多く公式にお金を落としたファン?

私は、初心を忘れないファンのことだと思います。

 

そして新たな仲間の自尊心を尊重する心。

ほかにはジャンルにおける暗部を嬉々として初心者に吹聴しない慎重さ。

あとは他人の、そのコンテンツに対する課金度を自分の物差しで測ったりしない賢明さ。

…とまぁ言い出したらキリがないのですが、

今日の悪口のターゲットはファン歴の長さで他のファンにマウントをとろうとする人です。

 

私、アレクサンドラ・スーパーノヴァはあるコンテンツのファンになって数年経っています。

初めは周囲にそのコンテンツに明るい知人がおりませんでしたので、主にインターネットから情報を収集する日々で、ファンの方々が書いた感想や考察等を時間を忘れて漁ったのもでした。

その情報が、良い話であっても悪い話であっても、すべての内容が新鮮で楽しくて、フレンチトーストを作るために牛乳に浸した食パンの如く、いろんな情報を吸収していました。

 

とにかくそのコンテンツに詳しい人と仲良くなりたい、そして自分の知らないことをたくさん教えてもらいたい。

当時の私は、そうすることでそのコンテンツをより楽しめると思っていました。

 

そんな中で、幸運なことに様々なファンに出会いました。

彼らはいろんなことを教えてくれて、私を沼の深い部分へと誘ってくれました。

それはとても楽しくて、知り合いがいなくて情報に飢えていた時に比べれば、情報の得やすさとその豊富さは段違いのものでした。

 

しかし、段々と自分の中での気持ちが変わってきたのです。

そのコンテンツのことを知れば知るほど、中には暗部として隠しておくべき、現代の社会においては好ましくないと判断される状況、のような情報も耳にするようになりました。

何も知らなかったときはキラキラ輝いて全てが清廉潔白に見えた世界も、いろいろなことを教えられた今では、見え方が違ってきていました。

 

初心者の私に、私が知らない情報を教えてくれる人が増えて、そして中には知りたくない情報まで教えてくれる人がいて、私は段々とそのコンテンツのファンに対して以前よりも友好的な気持ちを持てなくなってしまいました。

 

〇〇が好きな人に悪い人はいない

という言葉がありますね。

 

私も最初は心からそう思っていました。

みんな色々教えてくれて優しい、みんな温かい、良い人。

 

しかしそれは哀しいかな、まごうことなき虚構。

今、初心者だった当時の自分にアドバイスするなら、

基本距離とったほうがいいよ。

というでしょう。

 

それは何故か。

ファン歴の長い人の中には、初心者に色々な情報を与えることによって、人間関係において自分が優位に立とうとする人がいるのです。

古参ファンのマウンティング行為ですね。

 

昔、大学で受けた社会学の授業で、

「人間関係において、片方が常に相手に何かを与えていた場合、与えていた側の人に権力が発生する」

とかいう雰囲気の話を聞いた記憶があります。その記憶は非常にあやふやで、もはや誰の学説だったかすら覚えていませんが、なんとなく、学校の先生(知識を与える側)や、会社の社長(給与を与える側)のことを言ってるんだろうな、と思いました。

 

古参ファンのマウンティングは、これと同じ構造なのです。

初心者に情報を与えれば彼らは感謝するでしょう、そして古参ファンのことを好意的な目でみるようになります。

あるいはその情報量や、ツテという胡散臭い繋がりを、尊敬の眼差しで見るかもしれません。

さぞかし気持ち良いことでしょう。

 

しかし、私は気付いてしまいました。

彼らは私の「すごい」という言葉を搾取しているのだと。

 

もうこれに気づいてしまったら彼らのことは、飲み会で若い女性社員に「すごーい」と言われたいがために、くそつまらない自慢話を延々としてしまうおじさんと同じ人種だと思うことしか出来ません。

 

あのおじさんの自慢話の相槌は本当に苦行ですよね。

何度天然を装って「その話以前お聞きしましたよ~」と言おうとしたか。

言おうとしただけで意気地なしなので結局言えませんでしたけどね。 

あいつらちょっとでも若手女性社員の「おっちょこちょいエピソード」があるとハイエナのように食いついて「だめだよ~」とデキる俺からのアドバイスをかまそうとして来やがりますからね。

 

ちょっと脱線してしまいましたが、とにかくそのことに気づいて以降、私は心に決めました。

もう二度と「すごい」と言ってやらない、と。

無意識の私に「すごい」と言わせて勝手に気持ち良くなってやがるんだろ。

私が無意識なのを良いことに勝手に優位に立って権力を得やがって。

赦すまじ古参マウンティング妖怪。

 

ちなみに、古参マウンティング妖怪が最終奥義のように使ってくる手があります。

それは、ギョーカイとの繋がり匂わせです。

 

たとえば、私が、「〇〇に行きたいけどチケットがない」と何気なく呟くと、彼らは、待ってましたとばかりにこう言ってくるでしょう。

 

「〇〇の△△に知り合いがいるので、お願いしましょうか?」と。

 

はい出たマウンティングwwwwwwwwwwww

私繋がりあるんですけど自慢wwwwwwwwwww

 

以前はほいほい「良いんですかぁ~?」と自らも甘い汁を啜ろうとすり寄っていましたが、得られる目的物に対して支払うべき代償が見合っていない、と自分の中で判断した今は、無視するようにしています。

 

お金じゃないのです。

心がすり減るのです。

 

ファンとファン、という、絶対的に対等な関係であるにも関わらず、どちらかが偉い、どちらかがすごい、という関係性に耐えられないのです。

 

そもそも私は一介のファンにすぎませんから、メリットをもたらしてくれた側に対して、何も返せるものはありません。

彼らに対する羨望の眼差しも尊敬もなくなった今となっては、彼らに返せるものは本当に何もないのです。

「すごい」「本当にありがとうございます」「さすが◆◆さん!」などという偽りの賛辞を、たとえ本心でなくただただ褒めちぎりマシーンとして言えばいいだけの状況でも、絶対言いたくないのです。

 

何故なら彼らが私のこの言葉で、彼ら自身の優位を再確認し快感に浸るのが絶対に許せないからです。

 

最終奥義ギョーカイ繋がり匂わせでは、このほかにも、「☆☆さんのご両親とお知り合い」とか、「ブログに◎◎さんのことを書いたら本人から感謝された」等々のバリエーションがあったりします。

 

間違っても「すごい」と言わないように。

アレクサンドラ・スーパーノヴァとの約束だぞ!

 

 

どんなコンテンツにおいても、初心者とは貪欲なものです。

それはまるで思春期の少年少女が、性知識を恥じらいながらもがむしゃらに探究していく姿と重なるほどです。 

しかしそんな初心者を、古参マウンティング妖怪は狙っています。

「すごい」を軽々搾取されてはいけません。

アレクサンドラ・スーパーノヴァは、古参マウンティング妖怪が一日でも早く寿命を迎えることを心から願っています。

 

 

おわり。

ゴーイングメリー号のことを未だに許していない話

日本を代表する漫画のひとつである尾田栄一郎作「ワンピース」。

主人公ルフィの海賊王への冒険は、連載当初から少年少女たちの心を引きつけ、さらに今では世界中の少年少女のみならず、元少年少女までもを現在進行形で感動させている超大作です。

 

かく言う私もワンピースの熱心な読者であり、単行本が出れば購入し、新たな展開に胸を躍らせています。

 

そんな偉大な作品ワンピースについて、私アレクサンドラは2回程、「これはない」と思ったことがありました。

 

まず直近の方、「リンリン人間を食べた疑惑」です。

ワンピースの時系列の中でおそらく直近のお話、ビッグマム編の回想シーン。なんと幼少期のビッグマムことリンリンが、空腹で暴走してしまい、その場にいたお友達を全員食べてしまった(?)という驚愕の過去が明らかになったのです。

いくらなんでも人間を食べるのはない、おぞまし過ぎる、と思いました。

 

これはやっちまったな…

 

と同時に、こんなふうにワンピースのストーリーに対して憤りを感じたのは、「ゴーイングメリー号事件」以来だな、と思い出しました。

 

というわけで今日はいまだ怒りの炎がくすぶる「ゴーイングメリー号事件」についてお話します。

 

 

ゴーイングメリー号事件

主人公ルフィが率いる麦わらの一味を乗せ共に冒険してきた船、ゴーイングメリー号

これは、物語の最初の方で3人目の仲間であるウソップが一味として加入するイベントで入手した船で、それ以降何度も故障を繰り返しながら乗ってきた船でした。

しかし、物語が進むにつれ、船体において深刻なダメージを受け、これ以上の航海は不可能であるとのことで、ルフィはメリー号を手放し新しい船を確保する決断を下します。

しかし、人一倍思い入れの深いウソップだけは、そんなルフィと対立し、一味を抜けてしまいます。

 

その後、一味のひとりであるロビンが海軍に捕まり処刑されてしまうというイベントに話は進んでいくのですが、(ここの部分は関係ないので割愛)最終的にすべての敵を倒したルフィが、持てる力をすべて使い切った結果、起き上がることすらできず島から脱出できなくなるという絶体絶命のピンチが訪れるのです。

 

どのようにしてルフィはこのピンチを切り抜けるのか!?

どうか助かってほしい…!

読んでいた私も手に汗を握っていました。

 

ここで、何故この状況が絶体絶命のピンチであるかを述べておきます。

まず、舞台はエニエスロビーという島で、これは世界政府の司法機関が置かれている島です。その場所は、とにかく行きにくい場所で、ウォーターセブンという一般人が住む町がある島からの列車のみ安全にたどり着くことが出来る、天候も常に荒れており航路を使うことは絶対不可能、という記載がたくさんあるんですね。実際にルフィを始めとするメンバーたちは、仲良くなったおばあさんの手伝いもあり、異様に速いロケットみたいな列車に乗って移動しています。

こことても重要なので覚えておいてください。

 

で、絶体絶命のピンチに陥ったルフィ。

を助けたのは、これ以上の航海は不可能とプロの船大工に太鼓判を押されたゴーイングメリー号だったのです。

 

なんと、

①誰も乗船していない船が自らの意思で

②これ以上の航海は不可能と言われたのにも関わらず

③船でたどり着くことの出来ない場所に

④ありえない速度で

⑤開閉が厳しく管理されている門をくぐって

助けに来たのです。

 

奇跡で満腹ですよ。

 

挙句の果てには「助けに来たよ」としゃべる始末。

正直、これは完全に越えてはいけない一線を越えてしまったな、と思いました。

 

いくらファンタジー、虚構の世界の物語としても、やっていいことと悪いことがあると思います。

「そもそも悪魔の実があり得ないじゃん」という意見もあると思いますが、この、「悪魔の実」という設定は物語の根幹であり、ここの根底から懐疑的になっているわけではありません。

そもそも私はファンタジーが大好きですし、こういった少年漫画の突拍子もない設定に関し、抵抗は一切ありません。

 

だからこそ、守ってもらいたい一線があるのです。

「ファンタジーを楽しむ際にリアルの話を持ち込むこと」がすなわち無粋である、とする意見には大いに反論いたします。

なぜなら、多くのファンタジー好きがファンタジーを楽しむ際、ファンタジーの世界の中のリアルを設定して楽しんでいると考えられるからです。

またそのファンタジー世界の中でのリアル設定が、よりファンタジーの世界を面白く魅力的に彩っているのです。

 

例えばですが、世界的に有名な魔法使い「ハリー・ポッター」で、ハリーがピンチに陥ったとき、突然浮遊能力を発揮し難を逃れた場合、多くのファンは激怒すると思います。

ハリー・ポッター」の世界では、魔法使いが浮遊する際には箒を用いるというルールがありますから、そんな中でいきなりハリーが突然なんの道具も使わず浮遊した場合、「それはない」「あまりにもご都合主義すぎる」といった意見が溢れると思います。

さらにハリーが他の魔法使いとは違い道具なしで浮遊できる理由が「なぜなら彼はハリー・ポッターだから」といった、急遽つけられた設定と疑ってしまいそうな非常に浅い理由だった場合、ヤフーニュースを連日にぎわせるほどの世界的な炎上事件になっていることでしょう。

 

ゴーイングメリー号はこれと同じことなのです。

 

ファンタジーにはファンタジーなりの、越えてはいけない一線が確実にあるのです。

「ファンタジーに何を求めているの」とこれでも言えますでしょうか?

 

このメリー号事件は、ストーリーの大オチとして使われていなければ、もしかしたらここまでの怒りを覚えることはなかったかもしれません。

しかし、大オチとは、これまでの壮大なストーリーすべてを包括し回収するという重大な責務を担っています。

感覚的に申しますと、今までのフリ(壮絶な裏設定と戦闘シーン)をすべてまとめるにしては、オチの説得力が弱すぎるのです。

 

それを奇跡でゴリ押しするなんて、「邪〇台〇の風」の奇跡祭と同じです。

こちとら奇跡で納得出来るほど若くねぇんだよ。 

 

奇跡=辻褄を合わせる便利道具

ではないということを、強く言いたいです。

 

ワンピースは緻密に設定が組まれており、大人が読んでも十分に面白い、隙がない漫画であると思います。

だからこそ、これほどまでに世界中で愛されているのでしょう。

私もワンピースが本当に好きですし、伏線の回収や裏設定など、驚かされることがたくさんで、毎回心の底から楽しんでいるのです。

 

だからこそ、このゴーイングメリー号の奇跡盛り合わせ事件にはがっかりさせられましたし、

やったな…

と思いました。

 

どうか納得のいく説明をしてほしいと思っています。

納得のいく解説があれば、それを受け入れる準備はあります。

 

正直私は、このメリー号「助けに来たよ」事件で号泣するタイプの人間とは、根本の部分でわかりあえることはない、と思いました。

ここで泣いたか冷めたかで、その人物がどちら側の人間かを判断できると考えます。

 

という風なことを友達に熱く語った後、

「まぁ自分は泣いたけどね」

と言われてしまって、

「ごめんなさい」

と言いました。

 

(後の祭り)

 

 

おわり。

 

自分語りをする人への悪口

人間は誰しも、自分が大好き。

それはわかる。

でも所構わず自分語りをしてしまう人について今日は悪口を言います。

 

私アレクサンドラは、ハマっているコンテンツの感想ブログを持っていて、そちらは3年くらい続けています。

そちらはまぁまぁ見てくれる人がいて、けっこうコメントをいただきます。

 

渾身のネタとか、疑問に思っていることの考察とか、自分の中で満足した記事を書いたときに、

「面白いですね〜」とか

「ここの部分私はこういう意味かなと思ってました。」とか、

記事に対するコメントがくると、とても嬉しいものです。

 

でもその中で、当該記事に関する感想のコメント以外を書き込んでくる人が、まぁまぁな確率でいるのです。

 

「私はファン歴◯年です。推しは△△さんです。先月◻︎◻︎に行きましたが、なかなか良かったです。××さんにはもっと活躍してもらいたいです。」

という風な塩梅です。

 

もしくは

「私は◻︎◻︎の××を見てハマった者です。今度☆☆に行く予定です。今からとても楽しみです。」

というパターンもあります。

 

知らんがな。

めっちゃ知らんがな。

 

私としては、他のファンの友達を作る目的でブログを書いているわけではないので、ただただ戸惑うばかりです。

 

何目的?

もしも、仲良くなりたいという目的であるならば、ブログ主が一生懸命書き連ねた文章を無視して、突然に自分語りという名のボディーブローをみぞおちにお見舞いするのは、とんだ間違いです。

 

仲良くなりたいのであればまず、相手の気分を良くしてやる方が数万倍効率が良いです。

無視は1番いけません。

なぜなら、ブログを書くタイプの人間は、自分の考えを他人に示したい、褒められたい、と強く願っているからです。

ブログを書く人間の自己顕示欲を侮ってはいけません。

ですから、まず、どこの部分が良かったか、どれほど面白かったか、というヨイショをしてあげてください。

 

それで、相手の機嫌が良くなったところで、仲良くなりたい旨の文章を添える程度に書き加えればそれで十分です。

間違っても自分語りをしてはいけません。

 

なぜなら、ほとんどのブログ主が、貴方自身の情報には全く興味がないからです。

こんな記事を嬉々として書いている時点でお分かりのように、私はコメントを書き込んでくる人物に対し全く興味はありません。

あ、貴方が石油王で私の文章が面白かったご褒美に500000000円振り込みたいという話に繋がるのであれば是非自分語りをしていただきたいですが、それ以外の場合はママタレントがアップする子供のほっこりエピソードくらい興味がありません。

 

あ、お友達は貴方に興味があるから貴方とお友達であるはずなので、お友達にはそういうお話をしたらいいと思いますよ。

 

でも、面識のない全く親しくない相手、しかもブログを書いているような人間にいきなり自分語りをすることは、賢明な大人であれば控えた方が無難です。

 

 

これはブログへのコメントのみならず、Twitterのリプライにも同様の事が言えます。

 

有名になったtweetに対し、おびただしい程のリプライがつけられているのを見ることがありますよね。

私の体感ではありますが、あのリプライのおよそ7、8割くらいが、いわゆるクソリプと言われるものの類なのではないでしょうか。

 

クソリプを行なった者は全員地獄行きなのは決定なのですが、ではリプライで自分語りをしている者はどうなるのか。

 

やはり地獄行きです。

 

悪意の有無にかかわらず、内容と無関係の自分語りはクソみたいなリプライ、すなわちクソリプだと判断できるからです。

いくらその有名人に親近感を持っていても、出来るだけ自分語りをすることはやめましょう。

 

自分語り、それは油断するとつい行なってしまうもの。

それは仕方のないことなのです。

なぜなら人間は自分が大好きで自分のことを話したがる生き物だから。

自分のことを話し、そして他者から認知してもらう。

ここに多くの人は気持ち良さを感じます。

それは仕方のないことです。

 

しかし、その欲求を、赤の他人にぶつけるのは大罪です。

しかも、ブログやTwitterで有名になるような、自己顕示欲が通常より強いタイプの人間には、決してしてはいけないことです。

 

どうしても自分語りがしたい、自分の話を聞いてほしい、という衝動が抑えられない場合は是非、ブログを始めることをおすすめします。

ブログを持ち、自分語りのコメントをもらったとき、初めて、自分がいかに罪を犯してきたかを知るでしょう。

 

そして、心の底から湧き上がる、「知らんがな」を是非体感してください。

 

 

おわり。

ネタをネタとして楽しめない人への悪口

「ネタをネタとして楽しめない人は帰ってくれ」

 

これは私が常々思っていることです。

今日は、この、「ネタをネタとして楽しめない人」をターゲットに悪口を言いたいと思います。

 

まず、あるTwitterでの発言があったとしますね。

今適当なネタtweetが思いつかないので、実例を書いちゃいますけど(一応ぼかしてます)、

「〇〇さんはスイーツを食べに行っててテレビ番組の収録に遅刻しちゃったから局を出禁になった」

ていうのが以前あったんですね。

 

この発言を分析すると、「スイーツを食べに行ってて遅刻」は事実なんですね。

その界隈のファンだとみんな知ってるような有名な話です。

でもその後の「局を出禁になった」というのは作り話なんです。

 

この発言は、「うっかり屋さんの〇〇さんの可愛らしさ」と、(出禁になったことは虚実ではあるけれども)、「出禁」という言葉の持つ強さとのコントラスト、つまり、その言葉の高低差を楽しむようなおかしみがあるわけです。

 

この発言を、私は面白いと感じましたし、そもそも「出禁になる」という部分は、100人いれば100人がウソ、もしくはネタだと判断するものだと思っていました。

 

しかし、この発言に対して烈火の如く怒っていた人がいたのです。

ひとりふたりじゃなく、けっこうな人数だと記憶しています。

 

「〇〇さんは出禁になんかなってません!」

「誤った情報で〇〇さんのイメージを汚さないでください!」

というように、とても怒っていたのです。

 

いやいやいや。

ネタやんか。

 

 なぜ?

なぜ本気にしたの?

常に全力で生きていたいの?

日々全身全霊で生きてるの?

 

「ネタにマジレスはこの世で最も恥ずかしいことのひとつ」

 という真理を教えてくれる親切な人が周りにいなかったの?

 

インターネットの大海原には、確かに理解できないおかしみもたくさんあります。

これのどこが面白いの?と思うことも星の数ほどあります。

そういう場面に直面した時は、出来るだけ、見なかったことにして、無視するのが一番です。

誰も傷つかないし、傷つけない。

 

 

わたくし、アレクサンドラも、あるコンテンツのファンで、そのコンテンツの感想に特化したブログを書いています。

ネタのような記事もたくさん書きます。

 

そこに、ネタをネタと楽しめない地獄のようなコメントが時々来ます。

ほんと地獄。

 

どんな生き方をしたらそんなにつまらないことが言えるようになるの?

つまらないことを言うだけならまだしも、全然知らない他人のブログにつまらない書き込みをしようと思える度胸が逆にすごいよ!

ちょっと日常生活のぞかせてくれないかな? 

 

 芸人さんじゃないんだしそんなに面白いコメントを求めないでもいいんじゃないか、普通に感想を書いただけでもありがたいと思え、と、思う人もいるでしょう。

 

ダメです。

お願い面白いこと言って。

常におかしみを探求して。

後生だから。

 

 

 おわり。

 

アレクサンドラ・スーパーノヴァのブログ

はじめまして。

アレクサンドラ・スーパーノヴァです。

 

こちらのブログでは、普段思っていても言えないようなことを書いていきたいと思います。

 

さっき名付けた名前、スーパーノヴァに恥じないように、感情を爆発させようかな、と思います。

 

 とりあえず悪口を書きます。

よろしくお願いします。